ロックフェラー邸とユニオン教会見学ツアー > 途中立ち寄るお墓「野口英世」とは

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野口英世とは

野口英世 (のぐち ひでよ )は、福島県出身の細菌学者。日本人で彼の名を知らない人は滅多にいないでしょう。夏目漱石に代わって、千円札に顔が描かれている人物ですから。日本のお医者さんにおいては、医者になるのも野口英世に影響を受けた、という人も多いはずです。

数々の栄誉を受賞した野口英世ですが、彼の研究の大半は、ニューヨークのロックフェラー大学での研究員時代のものでした。英世は、ロックフェラー家にとっても、ニューヨーク、アメリカにとっても大切な財産であり、どこに行っても国賓クラスの待遇を受けました。今から100年ほど前に太平洋を渡った日本人が、なぜこれ程までの待遇を受けることになったのでしょう。

 

野口英世 世界最高峰の技術者、研究者

野口英世の伝記では、1歳半の時、火鉢に左手を突っ込み、大火傷で左手がくっついてしまったこと。極貧生活や、身体的な逆境から努力と忍耐で、世界的な成功を収めて行くところを中心に物語が語られます。もちろん英世の人物像は魅力がいっぱいなのですが、彼のニューヨークでの凄まじい人生はあまり語られていないようです。

野口英世のすごいところは、どのような状況におかれても、どのような困難が訪れても、猛烈なエネルギーと凄まじい集中力で乗り切っていくところです。とにかく、英世の集中力は凄かったらしいです。食事や睡眠も忘れ、トイレに行くことすら忘れ、24時間顕微鏡をのぞき込む。細菌は絶対に見つかると信じて、何千というスライドを丹念に調査していました。一般的な医学者や研究者では体力的精神的にも不可能なことです。人が10枚のスライドを見る時に、英世は寝ず食わずに20枚、50枚と見ていったのです。

ニューヨーク市には、ハーバード大学や、イェール大学に比す医学大学で、ロックフェラー大学があります。丁度、国連本部の裏側に位置しており、これまでノーベル医学賞受賞者を20名以上も輩出している、医学研究の大学としては世界最高の水準を誇る大学です。大学といっても大学院大学であり、1学年約20名ほどの学生のみの小数精鋭主義です。ニューヨークに滞在したら立ち寄ってみるとよいでしょう。1913年の大学設立の時に、英世は、第一期特別研究員として勤め始めました。それから英世が亡くなるまでの15年の間、英世は大学の業績を一身に背負い、文字通り大学の顔と呼ばれる医学者であり続けました。あの雲の上の名門ロックフェラー大学の基礎を作ったのが日本人だったということは、わたしたちにとって大変な誇りです。

ロックフェラーとは、1800年代後半から、アメリカの石油採掘と精油、およびその搬送に関わるあらゆる利権を独占し、アメリカにおける石油の専売特許を持った大富豪ロックフェラー家のことです。ジョン・D・ロックフェラーが創始し、その息子、ロックフェラー・ジュニアが後を継ぎます。世論がロックフェラーによる石油の独占反対に傾き、独占禁止法がアメリカではじめて制定され、ロックフェラーはその槍玉としてあげられます。ロックフェラーは、矛先を避けるために財団法人を設立し、慈善事業や教育機関の設立を行い、社会福祉活動を始めるのです。ロックフェラー大学とその研究所である、ロックフェラー研究所は、ロックフェラー・ジュニアが最も力を入れた社会事業でありました。

ロックフェラーは、大学の医学研究所の第一期研究員として、英世を迎え入れました。大学のスター医学者である英世は、大学、ひいてはロックフェラー財閥の威信をかけても、絶対的な結果を求められる重要な立場に立たされていました。ロックフェラー医学研究所の栄誉は、英世の双肩にかかっていると言っても過言ではありませんでした。それだけに、ロックフェラーという巨大な庇護の元、給料は、その当時の日本のどの大臣クラスよりも高く、総理大臣の給料だった1200円よりも多く貰っていたようです。英世は、その研究所の威信、ロックフェラーの威光を一身に背負った代表であり、ロックフェラー直々に、またニューヨーク市長直々に研究を依頼されることもありました。

英世は、持ち前の努力、忍耐力、集中力で、必ず見つけると決めた細菌を次々に見つけていきます。これまで不可能といわれてきた細菌を見つけることも、必ず見つけると決めたからにはどんなことをしてでも見つけるのです。細菌が見つからないと、細菌を増殖する努力を続け、顕微鏡では見れないほど小さな細菌だったら、大きく陪食する努力を続けます。さまざまな試験を連綿と続けて必ず細菌を取り出すのでした。黄熱病の研究までに、梅毒、小児麻痺、狂犬病などの病原菌を次々と発見し、ワクチンを製造していきます。

黄熱病の研究のため、ガーナに渡りますが、その時には、野口英世は世界最高の細菌学者として名声を得ておりました。ノーベル賞にも3度もノミネートされております(戦争による反日感情がなかったら、日本人初の受賞だったといわれています)。英世がガーナで死去した際も、細菌の散布を防止するため、本来ならば直ぐに火葬するのがあたりまえですが、棺桶を密封し、金属に詰めてハンダでこてして、アメリカに遺体は送り届けられました。このような扱いは一般では考えられることではありません。アメリカ大陸に病原菌を持ち込まないようにすることが目的で、黄熱病の研究を莫大な資金を投じて行っていたにもかかわらず、病原菌をはらんだ遺体をそのままアメリカに送り届けるなんて、、、。これは、異例中の大異例でロックフェラー家による敬意の表れでした。野口英世の遺体は、ロックフェラー医学研究所に2日間置かれ、盛大な葬儀も研究所で行われました。日の丸と星条旗が掲げられ、ロックフェラージュニアが英世に深い敬意を表し、直々に弔辞を読まれています。棺は、そのままウッドローン墓地に運ばれ埋葬されています。墓地の用地もまた研究所が英世のために購入したもので、これも特別な計らいによるものでした。英世の墓碑は、巨大なおにぎりのかたちをした墓石のお墓ですから直ぐにわかります。

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野口英世 数々の受賞

ロックフェラー医学研究所正員
フランスからはレジオン・ド・ヌール勲章
アメリカ内科学会からはコーベル・メダル
ペンシルベニア大学からは名誉学位
スウェーデンからは勲三等を授与
ブラウン大学からは理学博士
イェール大学からは理学博士
エクアドル共和国からは陸軍軍医監、名誉大佐の称号
勲四等旭日小綬賞
グアヤキル被傭人協会金メダル
グアヤキル医学校協会金牌
グアヤキル中央労働協会金メダル
黄熱病記念章
ジョンスコットメダル
大日本雄弁会メダル
パスツール百周年記念メダル
パリ・ソルボンヌ大学名誉博士
勲二等旭日重光賞
日本からは医学博士の学位
日本義勇表彰会賞牌を授与
東京帝国大学からは理学博士の学位
帝国学士院からは恩賜賞
正五位に叙せられる
さらに、3度目のノーベル医学賞の候補

野口英世のがむしゃらな人生を想うと、心が熱くなります。独りアメリカの地に渡り、ただがむしゃらに研究に没頭した。酒癖、女癖が悪くやんちゃな部分もあったようですが、人間味にあふれ情熱的な彼の生き様は、わたしたちに勇気を与えてくれます。その当時、英世が生きたニューヨークという街はどのような街だったのでしょうか。英世は、高峰譲吉が興したニューヨーク日本クラブによく立ち寄り、将棋を指していたといいます。わたしたち日本人の大先輩、高峰譲吉と野口英世は、ウッドローンで二人安らかに眠っています

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