ロックフェラー邸とユニオン教会見学ツアー > 途中立ち寄るお墓「高峰譲吉」とは

目次 | 高峰譲吉とは(この下すぐ) | 発明家として実業家として | 日米の架け橋として

高峰譲吉とは

高峰譲吉 (たかみね じょうきち )は、石川県出身の世界的な工学薬学博士。”侍科学者”で1900年代初頭のアメリカにとって日本の顔ともいうべき人物でした。顔は様々!科学者であり、医学博士であり、実業家であり、日本政府役人であり、日米親善特使でした。この時代の後にソニーの盛田さんがニューヨークにくるのですが、彼等に共通したものは、日本とアメリカを民間から繋ぐという実業文化人の役割を果たしたことです。それは、一個人の域を超えた、日本という国家の運命を左右するくらいの影響力を持っていました。

 

高嶺譲吉 発明家として、実業家として

長崎で英語を学び、イギリスに留学。帰国後、農商務省で肥料などの菌の研究を続け、日本で最初の人造肥料を製造。また、ウイスキーの製造に関する高峰式ウイスキー醸造法を確立。アメリカ大手のウイスキートラスト社の招きで、渡米しシカゴへ。シカゴで新しい醸造法によるウイスキーの量産化に取り組んだ。しかし、アメリカの労働者、投資家、他のウイスキー業者から大きく事業を妨害され、工場のオープンの日に、工場に火をつけられその大半を燃やしてしまう。研究と技術では成功していたものの、敵意のうちにあえなくウイスキー製造の夢は絶たれてしまった。

高嶺譲吉のすごいところは、そこでへこたれることがなかったことだ。常に向上心と高い志を維持してきた。ウイスキー造りをあきらめた譲吉は、化学の研究に没頭した。妻キャロライン(記録に残された日本人と米国人の結婚としては、最初のものであった)が陶器類の下絵を描く仕事をして、苦しい生計を支えた。ウイスキー造りの経験からヒントを得て、モルトからデンプンを分解する酵素(ジアスターゼ)を取り出し、消化を助ける薬を作り出した。譲吉の取り出した消化酵素が「タカジアスターゼ」(日本で始めてアメリカの特許を取得)である。ハーバード大学の後ろ盾を得、世界的な販売で大成功を収め巨万の富を築いたのであった。

新薬が売り出されると、胃のもたれがなくなると全米で大評判。自国、日本だけは日本人の手で販売したいという願いがあり、三共製薬を設立。初代の社長に就任する。これが、世に言う「三共胃腸薬」の第一歩目だったのである。

1900年、さらには、ホルモンの結晶を世界ではじめて取り出し、アドレナリンと命名。アドレナリンは、内科、外科だけでなく、歯科、眼科などあらゆる医学分野で用いられるようになり20世紀医学の基礎となった。

高峰譲吉は、タカジアスターゼとアドレナリンの発見によって世界的な名声を勝ち得たばかりではなく、アメリカで最も有名な日本人となったのである。

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高峰譲吉 日米の架け橋として

1904年、日露戦争がはじまると、アメリカの世論は親日と反日の真っ二つに分かれる。アメリカは、ロシア人の移民が多かったのだが、彼等は、旧ロシア帝政(ロシア人)からポグロムというユダヤ人迫害で逃れてきた、ロシア系ユダヤ人。ロシアに対する反感は大変強く、同時に進行していたロシア革命を擁護する立場にあった。ロシア革命は、ロシア人の体制に対するユダヤ人革命とも呼ばれている。特にロシア革命では、思想的背景にユダヤ人社会主義思想化マルクスがおり、指導者のトロツキー、レーニンといったユダヤ人が革命を中枢から主導していた。そのような背景もあり、アメリカでは、日本の後ろ盾をしたいという資本家も多く存在したのが事実である。特にウォール街のユダヤ人資産家たちは、ユダヤ人を迫害してきたロシア帝政に恨みを持っており、日本の国債を買い取り、日本を支援してくれる者がたくさんいたのはそのためだ。

話がそれたけれども、高峰譲吉は、近代医学を発展させ、世界的に医学界に貢献した功労者。アメリカでも妻キャロラインとともに、親日世論を高める為、様々な局面で民間と政府に働きかけました。日露戦争の時も、日銀副総裁の高橋是清(アメリカ留学の際、奴隷として契約させられ英語を習得、後、東大英語教員となる。日露戦争にて海軍を指揮バルティック艦隊を撃破した秋山真之、正岡子規、幸田露伴、夏目漱石等に教授。ここは司馬遼太郎の「坂の上の雲」に詳しい)の外債を、ウォール街のユダヤ財閥であるヤコブ・シフに話を持ちかけたのも譲吉の功績であり、ユダヤ人社会での親日世論を高めたのも譲吉によるところが大変大きかった。金子堅太郎枢密院顧問官、高橋是清日銀副総裁ら、要人が次々とニューヨークの譲吉の元を訪ねています。また、譲吉のハーバード大学時代の同級生に、時の大統領である、ルーズベルトがおり、講和に向けてルーズベルト大統領までを説得。こうして日米の親善外交に尽力をつくした譲吉は、日本にとっては国の宝というべき人物でした。

第一次世界大戦の終結の後、国際主導権の取り決めが1922年、ワシントンで開かれた。ワシントン会議である。日本に帰国し余生を石川県の田舎でゆっくり過ごそうと思っていた譲吉だったけれども、日本親善を最大目的として会議に出席することを日本政府より依頼され、譲吉のパイプラインであるアメリカの政府高官や財界、政界の有力者たちを、日本の使節団に紹介して周った。死力を尽くしたワシントン会議の後、譲吉は還らぬ人となった。

譲吉の葬儀は、ニューヨーク中心にある、セントパトリック教会でとり行われた(ゴッドファーザー3で、アル=パチーノが教会への寄付を行ったところ。また、ケネディー大統領など首脳クラスが葬儀してきたアメリカのカソリック教会の総本山である)。セントパトリック教会での日本人葬儀もはじめてなら、君が代がセントパトリック教会で唄われたのもはじめてのことだった。

高嶺譲吉の伝説は、まだまだあります。当時の東京都知事尾崎行雄と共に、私財を出してワシントンとニューヨークに桜の木を2千本ずつ送ったことでも有名です。これが有名なワシントンDCポトマックリバーのソメイヨシノと八重桜です。ニューヨークにはイースト川沿いに植えられ、ルーズベルトアイランドの桜は、4月中頃にニューヨークに入る時に、クイーンズボロー・ブリッジの上から見ることができます。また、日本からニューヨークのロックフェラー大学に来た医学者、野口英世を様々な有力者に紹介し生涯親交を深めており、眠る墓地まで同じウッドローン墓地です。そして、 ニューヨークの日本クラブは、高嶺譲吉が初代会長で設立されたもの。譲吉は、ニューヨークの日本人コミュニティーを作った先人でした(メジャーリーグでいう野茂投手のような存在ですね)。現在のニューヨーク日本人社会があるのも彼の功績によるところが大きく、僕らアメリカで生きる日本人の心の支えのような大先輩でもあります。

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